2011年 06月 08日 ( 1 )

協会の歩み②ろうあ者授産場時代  

ろうあ者授産場時代 (昭和25年~昭和46年)

 そして、昭和25年には大分市大道町にろうあ者授産場が設置された。当時の入所者は8名であり、木工の技術指導をしていた。
 当時の協会事務所は授産場内に置いていたが同年に授産場と同じ敷地内に移転した。協会の事務については土屋会長が中心に行っていた。

 
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遠方のため聾学校に通えない児童のために昭和23年に「あけぼの学園」が設立された。当時は約130人が入寮しており、寮の生活は6時30分に起床、7時10分体操、挨拶、7時20分に朝食、7時50分に聾学校へ登校。入浴は週に3回で低学年は保母と一緒に入浴していた。幼児の衣服は保母が洗濯し、小学校高学年からは自分で全て洗濯するように決められていた。

 あけぼの学園で生活していたろうあ者にとってあけぼの学園の思い出は限りなくあり、今でも同窓会等が開かれたらあけぼののことが話題になり盛り上がる。
 このあけぼの学園での共同生活の中でろう者同士の連帯感が育まれ、卒園後に先輩から誘われて聴覚障害者協会の会員に入るという例も多く見られた。
            
 あけぼの学園といえば小説「5,000匹のホタル」の中でも取り上げられているように昭和28年に竹田市立明治小学校からあけぼの学園に数千匹のホタルが送られた。
今でも「友情のホタル」として毎年ホタルが送りつづけられている。昭和34年からはあけぼの学園でホタルの人工孵化を行い、竹田の川に放流するようになった。
                
<当時は会員の親睦的な行事が中心で家族そろって参加している> 
 昭和28年には第4回全国ろうあ者大会が別府市で開催され、この時に3月3日を「耳の日」とするように提案している。   
この全国大会を大分県聾唖協会が成功させたことにより、全九州ろうあ連盟に加盟する他の協会の励みとなった大会でもあった。
昭和31年には県から補助金の交付を受けて「県聴力障害者授産所」が正式に開所した。この年に県協会事務所に全九州ろうあ連盟事務所を併設しており、九州のろうあ運動の重要な役割を担っていた。
 そして、昭和32年には土屋会長が全日本ろうあ連盟の副連盟長に選任され、以後昭和48年まで在任している。このことにより全国的な情報をいち早く大分協会が把握することになり、その後も土屋会長が大分のろう運動のリーダーとして会員を導いていった。行政との交渉も積極的に行っており、その後の大分のろうあ者福祉に大きな成果を残している。

 昭和36年には第1回耳の日記念大分県ろうあ者福祉大会を開催した。平成22年現在まで43回開催され、県協会の各地区協会を主管として持ち回りで開催している。この耳の日大会を通して市民啓発を進めると同時に地区聴覚障害者協会会員が結束して大会に向けて準備していく過程の中でそれぞれが大切な経験をする意義深い大会となっている。昭和50年代後半からは手話サークルが県下で誕生してきたことにより、手話サークル会員も耳の日大会実行委員に加わるようになり、ろうあ者と健聴者が連携して大会に向けて取り組んでいく傾向が見られるようになった。
昭和46年以前は県ろうあ協会へ行政からの委託事業はなく、会員相互の親睦的な行事が中心で一部の役員が中心的に活動していた
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by zentsuken2011oita | 2011-06-08 07:24